「サンディ・ピーターセンの暗黒神話体系 クトゥルフの呼び声TRPG」を買ってみた
実際にゲームをやらないのに、TRPG(テーブルトーク・ロールプレイングゲーム)のルールブックを買い集めてもう長いときがたつ。
最初はいつかは実際に遊びたいなと思っていたが、段々とそれとは別にルールを読むこと自体が面白いと感じるようになってきていた。
それは、もはや地図やガイドブックを見て、どんなところなのか想像することに近いかもしれない。
TRPGは、現実やファンタジー、ホラー世界などを舞台をしており、その中でどのような行動をすると、どのような結果になるかということを、サイコロによる成功率などのルールを交えて表現している。
例えば、「クトゥルフ神話TRPG」のシリーズの中には、中世ヨーロッパ(主に現在のドイツあたり)を舞台としたルールブックがある。当時の物価(通貨はデニール銀貨)や、病気(赤痢、ペスト)や、職業(木こり、傭兵)などがあり、異教徒のマジャール人と対立するドイツ東部を護衛として旅するとか、実に地味でニッチな内容だ。
似たようなものでは大正時代の日本を舞台にした「クトゥルフと帝国」や、19世紀末のロンドンでシャーロック・ホームズと会える「クトゥルフ・バイ・ガスライト」などもある。
クトゥルフ神話TRPG以外でも、アメリカの社会に潜む不死のヴァンパイアの社会ーを描く「ヴァンパイア・ザ・マスカレード」、スーパーパワーと引き換えに人間性を失うウィルスに侵された日本産ダークヒーロもの「ダブル・クロス」などファンタジー以外での世界観は読み物としても面白い。
とはいえ「クトゥルフ神話TRPG」は舞台を現代で遊ぶことが多い。とりわけ日本ではそうだ。予備知識が少なく、わかりやすいというのがあるようだ。
そこで「サンディ・ピーターセンの暗黒神話体系 クトゥルフの呼び声TRPG」である。
去年、2022年には出版されていることは知っていたのだが、ずっと購入することをためらっていた。
というのも、この本は「クトゥルフ神話TRPG」のルールブックではないのである。
サンディ・ピーターセンはオリジナルの「クトゥルフ神話TRPG」を作成したアメリカのゲーム作家だが、この本は別のファンタジーTRPG、「ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ第5版(D&D 5e)」のルールに基づいた本なのだ。
中身も、現代ではなく、ファンタジー世界を念頭においており、そこで、クトゥルフ神話TRPGで出てくる人間では絶対に倒せないような「神」とも言うべき強大なクリーチャー等がモンスターとして数値化されている。
プレイヤーになれるキャラクター(PC)も独特だ。「ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ」が元となっているので、当然人間のキャラクターとしてプレイできるのだが、追加PCとして「食屍鬼(グール)」「幻夢境(ドリームランド)の猫」「ズーグ(ネズミ人間)」「ノーリ(へび人間)」が紹介されている。
グールはクトゥルフ神話TRPGの中でもポピュラーで、その名の通り、墓場に現れては人間の死体を食べるアンデッド(暗黒の魔法の力で生きる死人)。そもそもが人間から変化した知性ある存在として描かれていた。
しかし今回の「暗黒神話TRPG」ではアンデットのようで、そうではない生きた種族として設定されている。人間社会で冒険者もやっているという。ファンタジーでのオーガの亜種のような存在のようである。
何なら子供を宿すこともできる。しかし、生まれての子供の頃は元の種族のように見えるので、普通の子供として育ってほしいと、本物の赤ん坊とすりかえる「悪いグール」もいるという。そんな二世の中には、大人になってグールになることも、死の間際に覚醒するものもいるとか。設定がいちいちエモい。
「幻夢境(ドリームランド)の猫」もまたいろいろな種族(火星猫、地球猫、天王星猫、土星猫)の紹介がされている。
ここでさらりと「幻夢境(ドリームランド」という名前がでてくるが、これは「クトゥルフ神話」の中で出てくる、夢の世界のことで、通常の人間が眠りについたときに無意識で過ごしている世界だとされる。覚醒とともに通常記憶は失われるのだが、ごく稀に現世の記憶をもったまま、「幻夢境」と行き来できる人間もいるという。その上、現実世界と実際に「幻夢境」と結びついた場所もあるといい、そこからは生身のまま「幻夢境」に行くことができる。グールも実はこの「幻夢境」の住人であり、現世と行き来しつつある空間として墓場の奥地が設定されていたりする。
そんな「幻夢境」で生きている知的生命体が「猫」である。もちろん、しゃべる。何なら、「幻夢境」の猫は覚醒した世界でも生身の「猫」の実体をもっており、人間とは違い、双方の世界の記憶の忘れずにいられるのだという。
つまり現実の猫がいつも寝ているのは普段「幻夢境」で生活しているためということになる。現世はもはや休憩時間のようなものだ。
ちなみにPCとしては戦士にも魔法使いにもなれる。
こたつで寝ている間、猫は「幻夢境」で冒険中なのである。
「ズーク」は正直そんなのいたっけというほどマイナーな存在だ。そもそも設定として「幻夢境」にしかでてこない。
「幻夢境」にて、夢と現実の入口近くで村を作っている身長60センチ程度のネズミに似た知的種族としてしか描かれていなかった。「クトゥルフ神話TRPG」にもさらりとデータと簡単な説明があるばかりだ。
モチーフはやはりネズミのようで、通常4歳で成人して子供を8人設けるので、20年で5万体にもなると説明がある。敏捷性と知性にすぐれ好奇心が強く発明好きというところからD&Dでのノームに近いのかもしれない。基本魔法使いや盗賊の職業として冒険者になるらしい。
「ノーリ」に至っては全く記憶になく、「クトゥルフ神話TRPG」の元ルールを読み返してしまった。しかし載っていない。モンスターだけを集約した本「マレウス・モンストルム」にもない。「幻夢境」だけを扱った「ラブクラフトの幻夢境(ドリームランド)」というサプリメント(追加ルール集)で、やっと「ノオリ」という名前で見つけた。ほとんどの「クトゥルフ神話TRPG」ユーザーは名前すら知らないのではないか。
「ラブクラフトの幻夢境」では2から4本の腕を生やしたあのあごひげ生やした男の人魚、のような表記だが、「暗黒神話TRPG」のほうでは腕は2本の状態から、自分の意思で追加の3本目、4本目を少し時間をかけて出したり、ひっこめたりできる設定となっている。顔も人間というより蛇やトカゲのような顔で、髪の毛のようにみえる「髭」では鰓呼吸をしており、水中で常時生活ができるという。体長も大きく、2.5から4メートルほど。「クトゥルフ神話TRPG第6版」的にはSIZ 2d6+12(平均19)と記載あるので、人間(2d6+6)の1.5倍ぐらいと考えればよさそうだ。戦士として複数の腕で攻撃できたり、とりあえずなんかすごい強い水中型リザードマンという感じでもある。
という風に追加PCだけみてもすっかりおなか一杯な情報だが、これに加えてメジャーな「クトゥルフ神話TRPG」のクリーチャーがD&D第5版のルール表記で記載されている。有名なクトゥルフなどは第1形態から第4形態まであり、数値的にもものすごい強い。その上、最終的にも放逐されたり、活動停止になるだけで永久に死ぬわけではない。誰がこんなものと戦いのだという感じだが、きっと需要があるからこそ、こういう本の出版が成り立つのだろう。
ここまで、お分かりのように、通常現代を舞台にして、戦闘すらしないような一般人をキャラクターとして、目星や心理学、図書館などのスキルを使い、人と会話したり調べものをしたりする「クトゥルフ神話TRPG」とこの「暗黒神話TRPG」はまったく別のゲームだ。世界初のRPGとよばれるD&D自体は、剣や魔法を使いひたすらモンスターと戦い、財宝やマジックアイテムを得てゆき、経験値を得て強くなってゆくというゲームで、劇的な成長ルールすらない「クトゥルフ神話TRPG」と差がはげしい。
D&D自体は世界的には(特にアメリカでは)、ほぼ標準といっていいほど現在でももっとも普及したTRPGだ。だが日本では残念ながらプレイ人口は少ない。1980年代から何度も日本語翻訳されているが、バージョンが変わるたびにその引継ぎがうまくゆかずなかったせいもある。結局、バージョンアップしてもほとんどルールに変更がなかった「クトゥルフ神話TRPG」が日本ではトップになった。
しかし、そういう意味では「クトゥルフ神話TRPG」は2019年からそれまでの第6版から第7版に出版を切り替え、第7版のほうを「新クトゥルフ神話TRPG」として売り出し、大きなルールの変更が生じたので実は危うい。それまでは数値の調整や、オプションツールの増減程度だったのが、いよいよ肝心のサイコロによる行為判定や、能力値の表記、対応するスキルの項目などにも手を加えた。こうしたものは、一部で使われていた「ハウスルール」を採用したものであり、曖昧で遊びにくい部分を修正した結果なのだろうが、かえってプレイヤー離れを起こしかねない。
なお、前述のとおりD&Dでは、第3版から第3.5版まではマイナーな変化だったが、次の第4版で大幅修正を加えたため、プレイヤーの離散を経験した。あまりにも違うと、第3.5版を元にした私家版ルーツが別ゲーム「パスファインダー」として発売されたほどだ。その結果第5版では、逆に第3.5版にルールが近いように戻している(アメリカでは「D&D第5版」対「パスファインダー2版」の争いがまたあるとかないとか)。クトゥルフも第7版が挫折して6版回帰の8版が出る可能性もありそうだ。
さて話を戻して、なぜこの「暗黒神話TRPG」の本をあらため購入したのかというと、単純に、お店で現物をみてほしくなってしまったということに尽きる。何しろ、ハードカバーで前ページカラー印刷。すべてのページにとまではいかないが、事典のようなイラストの点数である。文章だけのルールブックもそれはそれで好きなのだが、やはり所有欲への刺激はフルカラーのほうが強い。
TRPGのルールブックは自分のようなほとんどコレクターのような人の買い支えによっても成り立っているところもあるのではないかとも思う。だからどうだということもないのだが。
ついでに、この「暗黒神話TRPG」にはD&D第5版のコアルールが「フィフスエディションRPG」という名前で別冊についている。こっちは通常印刷のモノクロペラペラ本で、イラストも一切ない。というかこの冊子、208ページあるのだがすべて日本語訳でネットで無料でアップされている。興味のある方は、下記URLからPDFで読めるのでダウンロードしてみるのもよいかもしれない。
https://wit-awscms-witweb.s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/hjcardgamer/5eRPG_Core_0826.pdf
フィフスエディションRPG コア・ルール(in https://hj-trpg.com/ )
コア・ルールとあるように、キャラクター作成ルールのうち、D&Dの標準世界に沿ったオプションルールを除くと、ほぼすべての職業・種族・魔法のルールが記載されていて、最高レベルである20レベルまですべてカバーしている。
無料で公開しているなら数千円もする本の方は買わなくなるのではとなるかもしれいないが、そこは長い歴史の上、むしろ普及のためにはこのほうがよいと販売元のウィザードコースト社は判断したようだ。しかも、無料で公開したでけではなく、明記さえしておけば、このコアルールを元に、追加ルールを有料で出版することさえ可能となる。「暗黒神話TRPG」もその一つというわけである。
なお、悲しいことに、D&D第5版の日本語版はもともとホビージャパン社が行っていた。しかし、本家のウィザードオブコースト社が海外出版に関して一括委託契約をしていたGale Force Nine社(GF9)と、契約上の仲たがいを生じさせた結果、日本版はウィザードオブコースト日本支社が直接販売することになってしまった。
梯子を外されたホビージャンパンは出版済の日本語5版のルールブックやサプリをすべて絶版にさせられ、販売できるのは「フィフスエディションRPG」というD&Dの名前も使えない形のしかも、追加ルール集だけが販売することになった。
いわば、「暗黒神話TRPG」は、自分たちこそがそもそも日本語版D&Dを前のバージョンから普及させてきたぞという自負の最後の抵抗みたいなもだ。だから需要うんぬんを度外視して出版したのではとも思う。
そういういった事情を分かった上でも、一つ「サンディ・ピーターセンの暗黒神話体系 クトゥルフの呼び声TRPG」には不満がある。
あきらかに「幻夢境」を舞台にしているのに、地図も含めその地理的情報を全く載せていないのである。
あるのは、趣味としかいいようのない、サンディ・ピーターセンが考えたPCやクリーチャー、魔法の「マイ設定」ばかりである。カラーマップの一つもつけてよさそうなのに。そういうのは、すでに別ルールとは「ラブクラフトの幻夢境」があるから同じようなことはしたくない、ということなのか。
思えばサンディ・ピーターセンは、「クトゥルフ神話TRPG」の元となった「ルーンクエスト」というファンタジーTRPGのライターの一人であった時からそういう人だった。「ルーンクエスト」も文化人類学の影響を受けた、多神教世界の神話をもった硬派なゲームだったが、その中でも、サンディ・ピーターセン「トロールパック」という異常に設定過多なサプリメントを書いて有名になった。
トロールはそれまでトールキンの作った指輪物語のトロールのイメージが下敷きとなっていてそれで事足りていたが、このサプリの中は架空のトロール社会をどうゲームに使うのというようなぐらい細かく設定したという。このノリは、今回の「ズーク」や「ノーリ」の設定にも引き継がれている気がする。
以上のように、とても万人に勧められるようなものではないが、書き手の楽しさが伝わるから、こちらもこれはこれで満足している。
【参考】文中で出てきた他ルールブックたち
幻夢境ワールドガイドであり、クトゥルフ神話TRPで無理やりファンタジーアクションRPGしたい人向け追加ルール。ある意味ルーンクエストへの先祖帰りか。
これ単体で遊べる簡易ルールつき。もともとドイツの販売会社が作成したサプリが英語本家に逆翻訳されたという稀有なパターン。ロフトのおしゃれグッズの中に紛れて販売されているのを見たことがある。無茶しやがって。
元のクトゥルフ神話TRPの舞台が1920年のアメリカなので、同時代の日本となると大正時代あたりになる。今となっては鬼滅の刃の時代になってしまったが、軍や拳銃、スパイなど冒険の舞台としてはポテンシャルはまだまだ高い。ちなみに英訳などはされていない。
原著は当初、著作権上の問題でシャーロック・ホームズの名前をそのまま使えず、別のキャラ名にしていたらしいが、いつの間にか解決して今の版はそのままの名前を使っている。自分は詳しくないが、シャーロキアンの細かい目でどう見えているのかは気になる。正直、日本人からすると1920年のアメリカとの差異がよくわからないのだが。
最近ではあまり名前も聞かなくなったが、おしゃれ系TRPGとして一時話題になった。ぶっちゃけブラッドピット主演の映画にもなった「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」的な世界。今のクトゥルフ系同人TRPGもイラストやレイアウトに凝ったものが多いがそういった流れの源流にあるものと言えるかもしれない。
洋物ばかりの列挙の中で純国産TRPGの一つ。学園異能物TRPGとしては、頭ひとつとびぬけている。親しいキャラクターとの縁(ロイスという)をいくつも設定しておき、その対象が死んだり裏切ったりすると感情の激動により最強になったり行動不能から復活したりする。中二病の極地のようなルールが多数。
「ゴジラ-1.0」を渋谷TOHOでみた
2023年11月3日に封切りされたのち、ちらほらとよい評判が流れ始めていた。
ネタバレをくらう前にと、翌週の土曜に渋谷TOHOに駆け込んだ。
であるので予備知識は、戦後が舞台で主役が神木隆之介、監督が「あの」山崎貴であるということぐらいであった。
結果。
よかった。
見る前の期待値が低かったせいもあり、予想外にストレートな「ゴジラ」映画っぷりに文字通り涙をにじませた。
この高ぶりを抑えるのがもったいなくなり、帰り道、ダイエット中にも関わらず立ち飲み屋に入り、封印していたネットの感想を読み漁ってしまったぐらいだ。
プログラムで監督自身も述べているように、「永遠の0」であり、「アルキメデスの大戦」であり、「ALWAYS 三丁目の夕日」であった。これら監督の過去作のよい意味での延長にあるまさに集大成という感じだ。
もちろん、欠陥もある。監督の特徴である、大仰な芝居、わかりやすすぎるセリフ、がばがばな作戦、いくら舞台が昭和でもベタすぎる人間観、等々。
だが、物語はシンプルで一直線、そこのブレがないだけで他のところは許容できてしまう
あえてネタバレでいうと、この話は「特攻くずれの神木隆之介が、戦後にささやかな幸せをつかもうとするがゴジラにそれを奪われ、復讐のため再度特攻に向かう」という一文に集約される。すべてはこのために奉仕した作りとなっている。
これに乗れなくてつまらないというならば、それはいわゆる「not for me(自分にはあわない)」なので無理に見ることも、もちろんむりにフォローすることも不要だ。
まあそれでも。おそらく現状日本最高峰の「白組」のVFXによるゴジラ描写、戦艦・戦闘機でのデティールましましの映像などそのクオリティの高さは認めざるえないだろう。正直いろいろな映画のあからさまなオマージュシーンも多い。しかし話の中に十分溶け込んでいるので悪くはない印象だ(例をあげれば、ジュラシックパーク、エメリッヒ版GODZILLA、ジョーズ、トゥルーライズ、バトルシップ、ダンケルク、スターウォーズなど)。
前作の「シン・ゴジラ」と比べられるというハードルも意識的にアプローチを逆にしているのもよかった。シンゴジは群像劇、家族パートなし、官僚と自衛隊中心であったのに対して今回のマイゴジ(すでにそんな略称があるらしい)は、神木くん一人称、家族・職場パートメイン、海軍崩れの民間人主体の作戦などことごとく反転させている。
正直、山崎貴は苦手な監督で、「ドラクエ」「ドラえもん」「ルパン三世」などは駄作と認知されてもいる。それでも、「永遠の0」と「アルキメデスの大戦」はよかったし、「三丁目の夕日」も好みの違いはあるもののうまくまとまってるなと思っていた。
これらの要素をてらいなく自己反復しているところは、逆に、エヴァの再演奏的な「シンゴジラ」と共通してもいるのだが。
個人的には日本海軍戦艦が実写でこんなに活躍しているのはNHKの「坂の上の雲」以来ではないかと思う。零戦や、最後の「試作機」での飛行シーンもよかった(過去のいかにも合成みたいな感がなく、ちらりとコクピットの外をみる描写などがぐっとくる)。
ラストシーンのいくつかに考察めいた意見も散見されるが、それほど意見も割れていなく、全体的に観客に「これなに?」と悩ませる部分は少ないと思う。アメリカでの公開は12月だが、先行の試射の評判は上々とのこと。興行最終収入はもしかしたらシン・ゴジラを超える(82億円だったか)かもしれない。
パンフレットも「君たちはどう生きるか」と比べれば内容充実しているし、映画館としての体験としてよい作品だとしみじみ思う。もう一度ぐらい劇場でみてみたい。円安・不況・人口減とさんざんな日本の状態だがエンタメ業界はまだ少し明かりが残っている。
シナリオからの書き起こしと思われる小説版。特別に新しい要素は少ないようだが、映画の振り返り用に。
「すずめの戸締り」を二子玉川の109シネマズでみた。
「すずめの戸締り」を二子玉川の109シネマズでみて二週間がたった。
同じ新海誠監督作品の「天気の子」のレビューも書いたので今回も、何かしら感想を残そうとは思ったものの、ずっと何と言えばよくわからずに時間だけが過ぎていった。
人に「面白かった?」とか「お勧め?」などと聞かれたら「よくできている作品で、結構エンターテイメントしているので面白いと思うよ。ちょっとジブリっぽいところもあるかな」などとそれほど悪い評価は言わないと思う。
だが、正直言うと、自分の中で、この作品がうまく消化しきれていない。直接的には、あの2011年の東日本大震災にかなり直接的に言及していることがどうにも受け止め切れられない。
もともと、「君の名は。」「天気の子」と震災を受けた日本を、別の災害として描いてきており、直接的に東日本日本大震災を扱うのは当然の流れではある。
監督のインタビューを読む限りでは、「君の名は。」では震災をなかったことにしていると否定され、「天気の子」では災害を守るより大事な人を守るということでよいのかと非難され、それらを踏まえた上で今回の作品を作ったいう。
すでに公開から一か月以上もたつのでネタバレ全開で書くが、今回の主人公は東日本大震災で母親を失い、母親の妹である叔母と宮崎の田舎で暮らす女子高校生である。
これまでの作品のように、それっぽい災害ではなく、過去の日記の画面で3月11日と記載があったり、そもそも実家が東北の岩手でそこが物語のゴールであったりする。
そういうシリアスな設定の上で、主人公の鈴芽(すずめ)は、夢の中でみたことがあるよう気がする、長髪のイケメン青年と出会う。その正体は日本全国で地震の発生源となる怪物を人知れず封印して回っている神道的な呪術師。
そう、前二作がまだSF的な世界観よりだったが、今回は、現代を舞台にしつつも完全なるファンタジー冒険ものなのである。
物語の構造的には、前半は敵を追って、途中椅子にされマスコットキャラ化したイケメンとのロードムービーで、後半は、その緊急的に封じたイケメンを救うため、自らのトラウマと対峙するという半ホームドラマ的な展開となっている。
映画館では時間をきちんと見られなかったのではっきりはわからないが、原作小説ではちょうどこの前半・後半パートはページ的に半分ぐらいのところにあったので、実質二部構成になっていると言っていいだろう。
特に前半は割とまっすぐ明示的な敵を追ってゆく、アクションあり出会いありの珍道中劇がメインであり、震災によって受けた自らの傷と向き合うという湿っぽいところは少なく、マスコット化したイケメンとの心の距離の接近が主題といっていいだろう。
と、ここまで書いていてちょっと気づいた。
この映画、ストリーライン的にはうっかり開いてしまった封印を閉じなおすという話でありつつ、主人公の成長譚としては母を失った悲しさとむきあって乗り越えるというテイになっているのだが、今回の主人公、最初からかなり強いのである。
というか「生と死は偶然によるもの」と宣(のたま)い、敵に突撃したりと、メンタル的には既に死地を乗り越えた歴戦のソルジャーのようでもあるのだ。
もちろん、表面的な強さの中にも喪失の悲しみや後悔はある。いろいろなシーンに夢のシーンを挟み作劇的には丁寧に拾ってはいるのだろう。
だが、新海誠は本来、むくわれぬ恋のせつなさを描くのを性癖とする作家であった。
それ比べると震災による個人的な喪失の悲しみはそれほど深くは描かれない。
というより、実際に映画を見ていればわかるのだが、冒頭のあたりからのスマホの震災通知アラームで、教室中がざわめくシーンなど、すでに過分に実際の震災のイメージを多く刺激して、正直それ以上、作中で悲しみを強調されたら見てられない。
あまりもストレートな刺激だったので個人的にはちょっと身構えてしまった。
監督はインタビューでこの映画を、震災の直接の記憶をもたない十代に、それを伝えるためにも作ったと言っている。その扱いの匙加減は最大にきをつかっているはずだ。
だが、あまりに生々しい題材だからこそかえって災害による悲しみ自体は遠慮がちになり、むしろ、直接的に描いていない過去二部作のほうがより刺さるの出来になっていたのではないか。無論、これはその時代の記憶を持つ自分だからそう思うのかもしれないが。
自分はこの映画をみて震災という部分よりも、むしろファンタジーでほんのりラブな冒険活劇ものをがっつりやりたかったのでは、と感じた。
椅子になったイケメンは、絶対人間のときにはそんな動きできないだろうといぐらい空中をとんだり、豪快なアクションををこなす。正直ずっとそのままのほうがいいんじゃないのというほどだ。
また、今回の映画では前半は高知と神戸の二か所しか出会いはないが、テレビシリーズなら銀河鉄道999や花の子ルンルン並みに(例えが古くて申し訳ないが)ひっぱれそうな感じだった。
後半部分も、メンバーを叔母(CV深津絵里)とイケメンの友人(CV神木隆之介)と座組を変えてのドライブものになっていて、結局、この日本全国の放浪感がやりたかったのではないかと思うのである。
ということで、本当は冒険ものをやりたいのに、バランス的にそこに震災のシリアスを視聴者へのフックにつかっているように見えて、そこが個人的にはもやもやしたて点ということのようだ。
誤解をおそれず言えばこれは「震災という戦場で幼くして戦士のメンタルにされたすずめの覚醒話」だ。これ結構、攻めてますよね、監督。
以上、しこりについては吐き出したので、よかったという点を他にもあげてみる。
主人公を癒すのは結局主人公自身だという展開は納得感があった。これはある意味残酷なことではあるが、誰かのせいで癒されたり癒されなかったりするよりはよい。このあたりも主人公が強いなと思う部分で、同時に俺たちの新海はますますほんとにいないんだなと寂しく思うところでもある。
だが、彼の性癖はまだまだ多彩なので、大丈夫なところもある。冒頭の廃墟のパートのテーマパーク感、震災後の野原を美しいとキャラに言わせ、皇居のお濠のあたりのねちっこい背景描写、などは相変わらずだなと思う。
「言の葉の庭」で顕著だった、年上女性好きな性癖は今回影は薄いが、主人公の叔母さんも結局可愛く描いてしまうあたりに業の深さがあって素晴らしい。
あと冒頭でも述べたように、今回はジブリ的な部分が意図的に多い。イケメンの顔は「ハウルの動く城」のハウルや、「千と千尋の神隠し」のハクみたいだし、「魔女の宅急便」で使われた「ルージュの伝言」の曲を旅立ちのシーンで使ったりと結構露骨である。
監督は以前、もっと直接的にジブリを模倣したという公言している「星を追う子ども」という作品も作っており、今回はそのリベンジではないかという声もある。
※とはいえ、この作品、冒頭で「トトロ」のさつきの劣化バージョンみたいな主人公が出てきたところで、うっと、拒否状態なってしまい自分はまだ見ていない(できれば比較等してみたいが)。
今回の作品で東宝と約束していた震災三部作は終了となったらしいので、次回作はまた別路線でいくのかもしれない。
キャラクターデザインの田中将賀氏とは相性がよさそうなので、ここは続投しそうだが、どんなジャンルになるのかは未知数だ。
この流れでいくとシリアス度低めの冒険活劇度をあげたものになるような気がするが。神道好きなところからみると、時代劇あたりだろうか……。
最近すぐにいろいろ、つばさ文庫になる。これは学校の図書館入りを目指しているな。
「血圧が高い人がまず最初に読む本 最新版」を読む
二週間ほど前の人間ドックで高血圧だと診断された。二度図りなおしても上が160mmHgを超えた。昨年までは通常120台、高くとも140程度だったので、有無も言わさずという感じだった。
数日悩み、朝自宅でカフ式の血圧計で図ると150を超えていた。観念して近くの内科に行って診察室であらためて計測すると170をも超えた。思わず「マジか」とつぶやくと、その場で一か月分の降圧剤を処方され、毎日血圧測定するようにと冊子を渡された。
体重増はあったものの、少なくとも一昨年より痩せているはず。なのに血圧だけが極端に高くなった原因は何か。減塩しろというがそれでどうにかなるのか。薬の効果はあるのか、そして飲み続けないといけないのか。
まずは知識が必要だろうと、Amazon kindle unlimitedの読み放題で血圧に関する本を複数読み漁った。
多いのはやはり薬に頼らない、とか、減塩レシピとか、血圧を下げるための微に入り細に入りといった内容のもの。このあたりはダイエット本と似ている。
ここは総合的な内容をまず抑えねばということで探すと、よい意味でパンフレット的な内容だったのが、「血圧が高い人がまず最初に読む本 最新版 健康図解シリーズ①(主婦と生活社:刊 半田俊之介:監修)」。この内容をまずまとめて、知識の整理を図ろうと思う。
■目次
1章 血圧についてしっておきたい基礎知識
2章 血圧を上げない食事の心得
3章 肥満を解消して高血圧を防ぐ
4章 運動習慣を確立して高血圧を改善
5章 アルコールと上手につき合い、タバコはやめる
6章 ストレスを撃退して血圧をコントロール
7章 日常生活を見直して高血圧を予防・改善
8章 合併症を防ぐ高血圧症の最新療法
巻末:主な降圧薬
以下は自分の実体験を解析する形で内容を要約してゆく。
まず、高血圧症は大きく原因不明の一次性と、特定の内臓疾患による二次性に分類され、97-98%が前者の一次性であるということ。
医者にも腎臓などの病気でないか血液検査しましょうと採血させられた。この数%の可能性をまず排除しておこうということなのだろう(結果はまだ見ていない)。
そしてこの大部分の一次性高血圧症は、定義の通り特定の原因によるものではないということなので、つまりは自然治癒が難しいということになる。
そもそもの高血圧は何かということだが、最高値が130以上がそれにあたり、さらに140、160、180ごとにⅠ度、Ⅱ度、Ⅲ度と分類される(日本高血圧学会による)。
自分の場合初回からⅡ度の疑いをかけられたことになる。
さて一次のⅡ度(認めたくはないが)として何ができるか、その原因として考えられるものとしては何があるのか。
列記すれば、遺伝・体質30%、環境70%。そのうち環境も、塩分過多・運動不足・ストレス・肥満・睡眠不足・性格(怒りやすい、神経質か)・気温というおよそ健康全般に当てはまりそうなもの。
この中でも特にあげられるのが減塩と運動そして肥満対策(ダイエット)になる。ほとんどの高血圧の対応本はこれらの具体例をあげている。というか薬を除けばこれくらいしかできることがないということだ。
しかしである。2章から7章はタイトル通りのこれらの対応についてあげているが、その7章の終わりのコラムのタイトルはこういうものだった。
「生活改善だけで高血圧症を治せるのは100人中わずか5人にすぎないが……」
120ページ以上を費やして結局5%しか生活改善では高血圧はよくならないと言う。無駄やんけ。だがはっきり書いてあること自体は誠実だと思う。現代人の生活環境は過酷なのでだからこそ生活改善は他の病気を防ぐためにも意味はあるのだと。
8章以降は主に病院での検査や薬物療法についての説明だ。このあたりは医者とやりとりするにあたり、どういう観点で患者をみているのかという視点を得るために特に重要だ。内容もやや専門的になるので要約は難しい。というよりそもそもが要約なので、ここの知識をインデックスとして他の本で理解を深めるのがよさそうだ。
特に一つ挙げるならこの半世紀にあたり、降圧剤が格段に進歩したという点だろう。具体的には利尿剤しかなかったところが、カルシウム拮抗薬やAⅡ(アンジオテンシンⅡ)受容体拮抗薬などの新薬がでてこれらが主流となった(薬ができたから診断されるというのは抗うつ剤の歴史と似た構造なのだろう)。
巻末には製品名を含めて数ページのリストがあり役立ちそうだ。
さらに上の5%問題も加えて、8章の終わり(つまり最終項目)が「民間療法を安易に信じない」というのが医療従事者らしい。「みるみる下がる魔法の水」「三日で解消」は怪しいとか、お茶ぐらいはいいけど「バナナ」「お酢」など健康効果をうたうものばかりをとっても効果はないと釘をさしている。
上にあげたkindle unlimited も含め、高血圧関係の本には医者が書いた、特に大量に著作をだしている人のものほど、こういった食品関係の効果を推していた。具体的な著者名や本が思いあたり、個人的にはふふと笑いそうなる、シメであった。
以上がまとめではあるのだが、肝心の生活習慣改善の方法についてはほとんどあげなかった。多くの本と書いてあることはあまり変わりはない。
いわく、一日の塩分6g以下とか、アルコールは一日20g以下(ビールで500ml、ワイン2杯)で休刊日週2日、肉は脂身減らし、魚多め、カリウム含む野菜多め、BMI25以下のダイエット、有酸素運動(無酸素運動は血圧あげる)、ストレス減らせ、寝ろ、などなど……。
なお、かれこれ2週間、降圧剤を飲み、アルコールは一週間に1回のみ20g以下を守って、サイクリングやウォーキングにも励んでいるが結局130台が続いている。何なら150いったこともある。さてどうするべきか。減塩とか食べる量減らすぐらいしないと難しい。
今回、唯一のよかった点は高血圧のベテランである父との会話が弾んだこと。こんなに饒舌に語られたことはここ数年記憶にないほどだ……。これも親孝行ということか(多分違う)。
「新感染 ファイナル・エクスプレス」をNetflixで見た。
ヨン・サンホ監督の韓国映画「新感染 ファイナル・エクスプレス」(2016)をNetflixで見た。
コロナつながりで感染モノを意識して選んでいるわけではない。しかし、これもまた予言的な作品であったのだろう。
平たくいうとゾンビものである。タイトルは新幹線からのもじりであり、ソウルから釜山に向かう高速列車内にゾンビが入り込み、パニックになるということ端的に記している。
原題は「釜山行き」。英語タイトルも「Train to Busan」。この日本語タイトルは、揶揄されがちな独自邦題の中でもかなりよい出来なのではないか。公開当時も、この邦題のおかげかちょっと話題になっていた記憶がある。
いかにもB級的だが、期待にたがわぬ真っ向勝負のゾンビ映画である。似た時期に同じゾンビ映画の「アイアムアヒーロ」(2016)が公開されて比較されることも多い。どちらもよくできているので優越は好みの問題であると思う。むしろ、共通点としてゾンビになると肉体能力があがって、ハイスピードで追いかけてくるというのが興味深い。
監督のヨン・サンホは、アニメーション監督なので、アイアムアヒーローのマンガ原作(2009年から2017年)も知っていただろう。真似したという人もいるが、さすがにそれは言いがかりではないか。いくつもあるゾンビもののトレンドの中で、今は、肉体強化・知能低下型が人気だということだろう(ただし一か所気になるところもある。これは後述)。
物語は仕事人間のお父さんと、小学校の娘が別居中の母親へ会いに行くべくソウルから釜山への高速列車(KTX)へ乗るところから動き出す。実は、その前にも丁寧に家族の風景が描かれており、豪華マンションの広い部屋で年老いた母親がザルを前に手仕事をしているシーン等が印象的だ。
この絵だけで、金持ちになった息子の家に、どこか所在無げにいる母親と主人公の息子との関係がわかる。
この映画、上記の例のように、映画という限りある時間制約の中で、うまく関係性を描いたり、演出したりするところが上手い。
冒頭も、事故で検問されるトラックが、解放された後、道路で鹿を轢くのだが、車が去った後死体がひょっこり立ち上がるシーンから始まる。
「よーし、これからゾンビ映画、はっじまるよ!」という宣言高らかで非常に好ましい。
もっとも、映画公開時にはゾンビ映画だと売れないということで、ゾンビものであることを隠して宣伝されたらしい(Wikipedia情報)。悲しい現実である。
ゾンビ出現と共に、パニックムービーとなっていくわけだが、お約束の群像劇状態が始まる。
妊婦をかかえたマッチョな夫、逃げてきたらしきホームレス、野球部員とマネージャーのカップル、偉そうなおっさん、幸薄い感じの老姉妹に、乗務員、運転手。
アクションシーンというか、ゾンビ襲撃のシーンはとにかく、数数数。そして皆走る走る。演じている人もハイな状態になって、とにかく勢いだけは凄い。
CGも多用されているが、ノリノリな感じは画面を通しても通じる。
しかしこういうウェルメイドなものを見ると逆の疑問を持ってしまう。この映画を監督はどういう動機で作ったのだろうか、と。
もともとはアニメ畑の人だという。本作の前に実写映画の監督経験もなく、逆に長編アニメ映画は何作も作成している。
例えば、シン・ゴジラを監督した庵野秀明であれば、東宝からの依頼があって作成したなど、経緯はわかりやすい。
この映画はゾンビものであることを宣伝で明らかにして無かったということは、ゾンビものというジャンルムービーを依頼されて作ったわけでもなさそうだ。
次回作でNetflix限定公開の「サイコキネシス -念力-」(2018)は、地上げ屋と戦うお父さんの話らしい。あらすじを見る限りだと、おっさんが超能力に目覚めるというあたり、スティーブン・キングっぽさを感じる。
今年2020年8月には、本作の続編「半島 (映画)」が公開予定で、予告を見る限りではこっちはもっとアポカリプスもの要素が強い感じだ。
ラインナップからするとエンターテイメント志向なのか。
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と、ここまで書いてネットを検索。
以下で興味深いインタビュー記事を発見。
https://screenonline.jp/_ct/17115012
「新感染、実は影響を受けていた是枝監督の作品とは?!」
ネタ晴らしをすると、父親の造形に是枝監督の「そして父になる」の影響があるという話。ほかにも、車内での攻防は「キャプテン・フィリップス」「ユナイテッド93」を参考にしているとも。この辺りは、話を知ると「ああー」とうなづかされる。
監督自身の作品の好みとしては社会派なのか。
かといって、バットマンをネタに思いっきり社会派にふりきった「ジョーカー」とまではいかない。
作品中でも親子の情に関するエピソードが多く、社会批判もあるのだろうが、それよりも正義の味方(ヒーロー)になりたい、誰かを守る騎士(ナイト)になりたいというベクトルのほうが強い印象だった。
どちからというと、親の世代とのかみ合わなさあたりから、世代の違いによる断絶の方が根深いのかとも思う。
韓国社会は、1980年までずっと戒厳令を敷いていた。完全民主化は1987年とも言われる。
正義をデモで勝ち取ってきた上の世代に比べて、1997年の金融危機でIMFの介入を受けたのち、経済優先の体制、特に財閥による支配(10社でGNPの80%近くを占めるという)という子の世代の社会では、正義の見せようがないのだろう。
現代韓国社会では、ヒーローになるには弱くとも立ち上がる父という姿になるしかないのか。
金持ち=正義のような中国本土の状態よりかはまだよいのかな。
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まとまりが無いので、気になった細部の話をあと少しだけ。
ゾンビの群れに突入する際、腕をガムテープでぐるぐる巻きにするほどガードしておいて、上着を脱いだり、半袖になってしまうのは何でやねん! もっと防護しろよ!!
ゾンビになったおっさんが一瞬幼児化するのはずるい! ってか上で一度否定したけど、ここは少しアイアムアヒーローっぽい。走馬灯的なものなのかもしれないけど。
子役がうまい。冴えない感じが逆にすごい。こうの史代の漫画に時々出てくる、げじげじ虫をいじる少女っぽいのが実写では意外に稀有なキャラクター。ジャンル映画と少女というとパシフィックリムもいい味出していたし、相性がいいのか。え、REX恐竜物語はどうだって? 角川監督作品は除く……。
運転手さんがいい人。乗客乗務員もまたやることはやっている。上のインタビューによると、撮影に非協力的だった韓国の鉄道公社も作品後には、運転士役の俳優を名誉運転士に認定したとか。遅い! けどよかった!
いろいろ書きましたが、普通に面白いのでこのジャンルに抵抗がなければおすすめ。
2010年代のゾンビものの中でも外せない一作かと。
マンガ図書館Zで噂の「連ちゃんパパ」43巻(43話)を読んだ
一部で話題の「連ちゃんパパ」を読む。
https://togetter.com/li/1508322
吐き気を催す邪悪を主人公にした読むストロングゼロ全43巻「連ちゃんパパ」の感想
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2005/13/news126.html
ありま猛『連ちゃんパパ』がなぜか突然ネットで流行 「スナック菓子感覚で摂取できる地獄」など悪夢のような感想が集まる
上記の紹介リンクにあるように、北見けんいち(釣りバカ日記)や古谷三敏(ぐうたらママ)風の絵柄で、闇金ウシジマくんのような(殺人以外の)非道の限りを尽くすパチンコ狂いの主人公という話である。内容の露悪さに読むのを挫折する人も多いようだが、おおよそその悪行のリストを先に見ていたおかげで、最後まで完走することができた。
簡単にまとめる。パチンコ依存で借金300万を作り男と逃げた妻を追う、高校教師と小学生の息子。妻を追う過程でパチンコにはまり、自らパチプロと名乗る。養護施設出身の借金の取り立て屋が息子に甘いことを利用し、同居の上、闇金取り立てに意外な才能を見せる。何度も男を変えた末に身ごもった妻ともよりを戻し、一度は金で売った息子と三人で最後は暮らすことになるのだが、そのパチンコ脳はもはや戻ることはなかった。
他のエピソードもいくつもあるが、これだけでも胸がいっぱいになる話だ。救いがないようなあるようなところは、登場人物の八割は極端なエゴイストなので、ぶっちぎりでサイコパスな主人公の悪に若干サバイバル感や、もうここまで来たら何しても驚かないという印象を与えてしまう点だ。
上記にウシジマくんのようだと書いたが、一読して思い出したのは「ナニワ金融道」だった。とあるエピソードのラストが、似たような、畑を共に耕し、再出発を誓う夫婦のシーンであった記憶がある。
ナニワ金融道の連載1990年から1996年。連ちゃんパパの連載も1995年ということなのでほぼ同時期と言っていいだろう。
また吉田栄作主演の「もう誰も愛さない(1991年)」をはじめとするジェットコースタードラマも彷彿させる。こちらも土地や金にまつわる悪の連鎖で、毎回状況がかわってゆく物語がウリだった。
パチプロ7というパチンコ雑誌に連載されていたというが、これをみてパチンコをやりたいと思う人は少ないはずだ。逆に編集者をとおして様々ないわゆるパチンカスの事例を知り、それを反映させていたりするのかもしれない。バイト先の主人をパチンコ漬けにして、借金のカタに家屋を売却させるハメ方など、妙なリアリティがある(むろんナニワ金融道よりアバウトな描写だが)。
パチンコ依存症によりおかしくなったとはいえ、だんだん金を得るためには手段を択ばなくなり、例えば、かつての教え子からのカンパを泣きながら受け取ったら、即座に笑顔でパチンコをはじめ、次のカモを思案するという、病気というのもおこがましい状態はまさにサイコパス。
しかしパチンコ依存症はアルコール依存症などと比べるといささかやっかいだなとも思う。アルコールや、たばこなどの薬物系依存症は基本消費するだけだし、究極的には自分の命をもってお終いとなる。しかしパチンコ依存症の全てがそうだとは思わないが、金を稼いでいる、前向きなことをしているという認知が意識に張り付いているようで、他人を見下し勝ちなのがさらに度し難い。
もっとも作品として気になる点もある。
子供が引きこもりになるところを自閉症と書いているが、自閉症ってそういう一時的なものではないだろう。通常発達障害的な意味で使うものだ。作中でパチンコ依存症と診断しながらも、その医師が眠れないからと主人公にパチンコを勧めてしまうのも医療的ではない。
また主人公の教師としての能力もややご都合主義的だ。高校教師なのに小学校の先生に再就職したり(小学校の免許は別ではないか?)、進学塾では二週間でクビになるのに、地元密着型小学生向け塾ではいい先生と扱われたり、キャラ設定がぞんざいだ。
マンガ図書館Zで無料公開されたのがきっかけとはいえ、このご時世でバズったのには何か世相が隠されている気がする。
流行が2、30年周期で巡るという考えもあるが、おそらく当時は話題になっていなかったはずだ。
こういうサイコパスな人が増えたのか、単に広く可視化されはじめたのか。
おそらく後者で、一つの「類型」として認知が高まったからだと思う。
以前であれば、単に「クズ」という言葉で済み、まあ一定数悪い人もいるよね、で終わっていた。
しかし、この「共感性が無い」ということの、恐ろしさと強さを、共感力を求められる時代だからこそ皆敏感になっているのではないか。
そこにはいくらかの憧れすら込めて。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%83%91%E3%83%91
連ちゃんパパ(wikipedia)
https://www.mangaz.com/book/detail/202371
連ちゃんパパ(マンガ図書館Z)
【追記】
実写化の際のキャストは誰だ話も盛んですが、むしろ自分はOPはどんなのがよいだろうかと妄想したところ、「サンデーパパ」が思い浮かび、今はその歌が頭にこびりついて離れません。あの底抜けな明るさがいい感じに恐さを演出するのではないか、と。
話題のポン・ジュノ監督の「グエムル-漢江の怪物-」をAmazon Primeで見た
ポン・ジュノ監督の「パラサイト 半地下の家族」がアカデミー賞を受賞したからなのか、Amazon Primeでおすすめ上位に出てきたのを期に見てみることにした。
映画自体は公開された頃に既に評判を聞いていた。映画の公開は2006年。あの頃、2001年日本公開のシュリ、JSAなどから韓国映画は日本映画よりすごいんじゃないかという評判ができつつあった。2003年に冬のソナタが日本で放映され、いわゆる韓流ブームがわきあがっていた。
もっともWikipediaの韓流ブームの記述を見る限りでは、2006年には韓国映画は買い付け金額が高いわりに日本国内ので興行収入が上がらず、2007年には少なくとも映画ブームとしてはほぼ終息したようである。その背景には、世界的な成功を続けているK-POPとは違い、国内向けの作品が主だったからだとも。いわく恋愛と軍事物ばかりである、と。
ともあれ、韓国のモンスターパニックものとしては面白いよという評判と、トレイラーで「怪物」が人を襲っているシーンを少し見た記憶だけという状態で見てみた。
見終わった感想は、というと、まず出てきた言葉は「うーん」というもの。
ここには、なかなか興味深いものを見たという唸りと、ハッピーエンドとは言い難いエンターテイメントしきれない作風に、ちょっとカタルシスが足りず寂しいという二つの感情がこもっている。面白いかどうかといわれれば「興味深い」という意味では面白い。けれども、B級パニックエンターテイメントとしてはどうだろうと言わざる得ない。好きか嫌いかで言えば個人的には大変好きだが、人に勧めるかどうかといえば、ちょっと難しいかなとも思う。
一行でこの話を整理するなら、「米軍のせいで生まれた怪物に娘を奪われた父親・爺さん・叔父・叔母が彼女を取り戻すべく軍・警察に追われながら追跡し対決する」ということになる。
どうでしょう。興味わいてきましたでしょうか。
主演は、「パラサイト」でも主演のソン・ガンホ。これが社会的落伍者として描かれている。
実父からは、できた妹・弟に対し「あいつは2歳までは賢い子だった。頭をうったせいなのか今は情けないと思うかもしれないが、そんなことを本人には言うな」とフォローにもなっていないことを言われ、実際言われた二人も、話も聞かずに眠そうにするだけというシーンがある。こうした緩いギャグのシーンが多い。
ほかにも物語の中で、「怪物」に接触するとウィルスに感染するというくだりがある。主人公は合同葬儀の場からそのまま検疫官たちによりパック詰めされて強制排除される。しかし次のシーンでは主人公の家族のいる病院に隔離されることなく同じようにすし詰め状態にされており、家族にも「あのものものしい連行はなんだったんだ」とつぶやかれる。
なお、このウィルス描写のせいか、監督は今回のアカデミー賞がらみのインタービューでも、新型コロナの対応についても質問されていた。浦沢直樹の漫画「20世紀少年」をあげつつ、人間の不安恐怖、人種偏見などがもっと怖い、などと返答したそうである。
現実の政治関連のネタとして自分のコメントが使われるのは避けたいということだろう。
他にも、太った「エイリアン」のような怪物が冒頭河原で暴れまわるシーンも怖いながらもどこかコミカルだし、共同葬儀場で泣き崩れる主人公家族も、あんまりにも駄々っ子すぎる描写はいくら韓国には泣き女文化があるにせよやりすぎである。そもそも若き叔母役のペ・ドゥナが、アーチェリーの選手として出てきた時点で「うん、これで『怪物』を射るのがクライマックスなんだろうね。うんうん」と目を細めてしまった(そして実際にそうなる)。
この「緩い」感じはおそらく監督の作風なんだろう。だが、そこが、プロットのサスペンスとちょっとノリが合わないのではないかとも感じてしまう。これは作り手の照れなのかなとも思う。
扱っているモチーフは実は結構シビアだ。米軍の言いなりになる韓国。貧乏人への辛辣な描写。社会の敵となると容赦ない韓国人社会。そしてダメ父が父としてどう生きるかということ。これらに物語中のカタルシスは無い。いわばやられっぱなしなのである。故に「うーん」と唸ってしまうのである。
ぐっとくるシーンはいくつかあった。一番は、主人公の父親(お爺ちゃん)が怪物を前に死を覚悟して、「はよ行け」と手をしっし、しっとするところ。ベタである。でもそこがいい。
あとは若い叔母役のペ・ドゥナ。かわいい。臙脂色のジャージを着て顔が泥まみれになっているのがいい。鉄橋の橋げたにある穴からひょこりと顔を這い出し、ゲームキャラかよと言わんばかりに前傾姿勢でアーチェリー片手に、橋の上を走りだすシーンがストーリーとは関係なく何とはなしに好きだ。
ちなみに、ペ・ドゥナはこの前年2005年には日本の山下敦弘監督作「リンダリンダリンダ」に出ている。なんなら、2009年には是枝裕和監督の「空気人形」でも主役を演じている。先日、同じカンヌ映画祭のグランプリを取った者同士ということで、是枝裕和とポン・ジュノとの対談インタビューを受けていた。彼らは大変近いところで映画を撮っている。
もう一つ最後まで見ての感想としては「これも、『そして父になる』」なんだなあということ。
是枝監督のそのものずばり「そして父になる」も「万引き家族」も主題の一つが「弱い父親」だった。そういえば山下監督が数年前に撮った「山田孝之のカンヌ映画祭」というモキュメンタリー(ドキュメンタリー風ドラマ)も、最後はオチは弱い父との再会だった。パニックものでいえばスピルバーグの「宇宙戦争」もそんな話だ(これも2005年か)。
こういった弱い父像の反動が、トランプを筆頭とする反知性的な強いリーダーを求める今の流れになっているのかもしれない。
「パラサイト」はまだ見てないので、そのあたりがどう描かれているかは気になってはいる。